[さずかりの人生 正法寺住職 愛知専門尼僧堂々長 青山俊董 著]

[さずかりの人生 正法寺住職 愛知専門尼僧堂々長 青山俊董 著]

12月は気温が上下して、体調管理が大変だったことと思います。

あと、もう少しで今年も終わり、辰年の令和6年が始まります。

気候変動の少ない良い年となることを祈るばかりです。

さて、今回は私の好きな尼僧青山俊董さんの本の内容を紹介させていただきます。

青山さんは5才の時に長野県の曹洞宗無量寺へ入門、15才で得度し、愛知専門尼僧堂で修業し、駒澤大学仏教学部、同大学院修了。

参禅指導や講演、執筆のほか、茶道・華道を通じ、禅の普及に努める。

『―欲の真ん中に私が無くなったとき-

「味気ない時代になりましたなあ。何でもかんでも金、金、金といって、私ら小さい時親がよくいいましたよ。『私らのような貧乏人はお役人にはなれん』と。

どうして貧乏人はお役人になれんのかと聞いたら、

お役人というのは、国をあずかる人達。自分の財産をはたいてでも、国の為に勤める。それで初めて良い仕事ができる。貧乏人はすぐ欲を出す。これをやったら自分のふところに入るかと。一つやるごとに自分のふところに入る計算をするようでは、ロクな仕事はできない。だから貧乏人はお役人にはなれんというのだ』ということです。

ところがどうです。今は総理大臣から始まって私利私欲ばかり。それで良い仕事のできるはずはありません。

人間、いつ死ぬかわかりゃしませんからね。何時オダブツしてもいいように、チャンと生きなきゃだめですよ。」

千種駅から乗ったタクシーの運転手が語ってくれた言葉です。

運転手さんの言葉から、とりあえず三つのことを学んでおきたい。

第一は人生の生き方に二つの姿があるということ。

一つは、何をするにも“私にとって損になるか得になるか、気にいるか気に入らないか”と考えたり行動するその真ん中に常に「私」が居座っている生き方である。

欲がイコール悪ではない。良くは大切な天地からの授かりの生命のエネルギー。

それを小さな「自我の欲望の満足」の方向に増長させていったとき煩悩となる。

いかに国の為、世の為に働いているようでも、深いところに「私への思い」がうごめいていたら、これは煩悩にすぎない。

「小さな私への思い」を投げ捨て、ひたむきに授かりの仕事に生命をかける。

それも「欲」には違いないが、「欲」の真ん中に「私」が無くなった時、「誓願」に変わる。釈尊は「欲」を「自我」の方向へ向けるのに対しては「小欲」「知足」といましめられ、「誓願」の方向へは大欲張りになれ、とさとされた。

<欲の使い方は自分次第である> 』

 

toshimori